01
蛍が一匹、夜空を飛んでゆく。
その光は弱弱しく、消えそうであった。
僕は、その光を追いかけて、両の手に収めようとした。
その瞬間、蛍の光は大きく光り輝き、辺りを照らし始めた。
女の子がいた。
彼女は、じっと、僕を見つめていた。
蛍の光越しに。
黒い目が、まるで夜のようで、僕を飲み込んでいく。
光は消え、再び、闇の世界が訪れる。
それでも彼女は、僕を見つめていた。
ある夏の、物語である。
02
夏。
絵に描いたような、日本の夏。
僕は普段通り学校へと通う。
高校生。
ただの、日本の高校生。
普段と違うのは、僕の隣に、席が出来たこと。
その正体は、8時30分のチャイムで始まる朝礼で表した。
神田ひかり。
彼女はそう紹介された。
転校生だ。
ハッとするほど凛として、しゃんとしていた。
そんな印象をもった。
長い髪を束ねたポニーテールを揺らしながら、教室にあるたったひとつの空席へ歩き着席した。
休み時間は彼女への質問タイムとなった。
好きな食べ物、入りたい部活、趣味とかとかとか。
喧噪であまり聞く気にもならなかった。
結局、彼女とは一言も会話せず、その日は終わった。
あまり自分からは話しかけないタイプなのか。
でも転校初日だし。
こんなものか。
03
彼女は、あっという間に帰宅する。
部活にも入らないようだ。
どうやら怪我していて、運動ができないらしい。
かといって文化系の素質も無いみたいな話を昼休み中に女子たちと会話していた。
切れ目の彼女には、弓道が似合うとかバスケが良いとか、勝手なことを言っていた連中も「仕方ないね」で一蹴された。
僕は個人的にせいせいしていた。
自分たちの都合だったり、仲間を作りたいエゴで転校したての女子ひとりを囲おうとする行為がどうも好きになれなかったからだ。
そのころから、僕は神田に興味を持ち始めた。
聞かれたら答えてはいるが、どこかベールに包まれているような感覚がある。
何か重大なことは、話していないように思えた。
帰り際、僕はようやく謎の転校生と会話することができた。
「神田」
「……何?」
「えっと…」
話しかけたのは自分なのに、口ごもってしまった。
すべてを弾き返さんとばかりに、見えない壁みたいなものが目の前に立ち塞がったように思えた。
「えっと、僕は千鳥ヶ淵。千鳥ヶ淵レン。隣の席なのに、自己紹介がまだだったなって」
「そう…親切にありがとう」
……
会話下手である。
とりあえず何か話そうと思って声をかけた手前、これ以上特にない。
でも彼女もまた、会話を進めようとしていない。
問われたら答える。
やっぱりそうなんだと思う。
「何か困ったことがあれば言ってよ。隣の席だし、手伝えることがあれば協力するから」
「ありがとう」
そう言って、神田は立ち上がった。
「じゃあ。また明日」
「ああ、また明日」
神田が教室を後にした。
04
僕にはひとつ趣味がある。
それは、僕の家の近くを流れる川に、毎年夏になると蛍が飛びまわるのを眺めることだ。
趣味というか、毎年の恒例行事だと言っていい。
幼いころに、父から蛍という存在を教えてもらって以来、蛍鑑賞が僕の毎年の楽しみのひとつとなっている。
非常に小さな、せせらぎと言うべきその小川に、無数の蛍が飛びまわり、その光で埋め尽くされる光景は何にも代えがたい。
「じゃあ僕もそろそろ帰るわ」
「おう。じゃあな。今夜も見に行ってみるのか?」
「うん。そうする。多分、今日も見れないと思うけど」
「まあ、毎年見れてるんだから、待ってたら見れるよきっと」
「そうだな」
どういうわけか、今年はその光景がまだ見れていない。
例年であれば、その姿をみかけ、辺りを星空にしてしまうのだが、今年にいたってはただの一匹すら飛んでいない。
いつしか僕は焦っていた。
見逃してしまったのではないか、蛍たちが絶滅してしまったのではないか、と。
だから毎晩、それこそ夜な夜な小川周辺を徘徊している。
生物部での活動だって、その研究報告がひとつだ。
みんなは大丈夫って言うけれど、僕は内心穏やかではない。
夏特有の陽の長さも終わり、すっかりと夜がやってきた。
僕は、スマホを片手に、夜の世界へと消えていく。
05
小川までは歩いて数分。
でもその数分が、とても長く感じる。
早く到着したいが、昨日と同じだったらと思うと、早く行きたくないとも思った。
それでもいつも見慣れた光景が、すぐ眼下に広がった。
ただ静かに、虫たちが鳴き、せせらぎの音が、ここが大自然のなかであることを証明していた。
帰ろう。
また明日来て、確認しよう。
なかばすがるように、明日に期待を持たせた。
その時。
目の端に、光る何かが見えた。
僕はその方向へ急いで向かった。
蛍が一匹、夜空を飛んでいた。
その光は弱弱しく、消えそうであった。
僕は、なんとかして、両手にその光を収めようとした。
その瞬間、蛍の光が大きく光った。
そして、闇夜の世界を照らし出した。
そこには見慣れた女の子がいた。
いや、最近見慣れた、と言うべきだろう。
彼女は、じっと、僕を見つめている。
気づくと大きくなっていた光は消え、今度は夜が大きく広がっていた。
それでも彼女は、僕を見つめていた。
「神田?」
彼女は黙っている。
「おい神田だろ?どうしてこんなところに」
「ち」
「ち?」
「千鳥ヶ淵…君…」
「そうだよ」
「何?」
「何はこっちのセリフだよ。僕は家が近くて、ここで蛍を観察してるんだ」
「蛍?」
「そう。今年はまだ見れてなくて、心配してるんだ。あと千鳥ヶ淵でいいよ。君付けはいらない」
「そう」
だから神田こそ何してるんだと言いそうになったが、僕は彼女の重大な何かを知ってしまった。
神田はスポーツウェアを身にまとっている。
怪我で運動できないはずの神田が。
そして、足元に何かがある。
ボール。
サッカーボールだ。
「神田…お前…」
「誰にも言わないで」
「…え?」
「お願い。私と千鳥ヶ淵だけの秘密にして」
「…え?え?」
まさか、運動、サッカーバリバリにできることを隠したいってことか。
「私、元サッカー部だったの。でも試合中に怪我をして、もうサッカーできないって言われて。それが嫌でこうしてリハビリ練習しているの」
意味が分からなかった。
サッカー部?怪我?できない?
それって引退ってことじゃ。
「私、絶対に諦めたくないの」
蛍が一匹飛んでいる。
「だから、誰にも言わないって約束して」
その微かな光はたしかに蛍の光だ。
「必ず復活するから」
僕の、僕たちの夏が始まった。