ユアスタ。
バックスタンドの最上段に腰を据えることになったのは、実は最近だったりする。
いわゆるユアスタの俯瞰とやらがどんなものかを観たくて、その席に座ったら最後、僕の腰をつかんで離さない。
スタジアムに来るサポーターやら、相手チームのサポーターやら、それはもうピッチだけじゃない、スタジアム全てを味わいつくせる最高の場所だと尊崇している。
きっとまあ、ここに来るひとの多くが、この場所に求めている何かがあって、それが最高に発揮される場所を自らの最高の場所とやらにしているのだと思う。
僕が思うに、いや、僕ではない誰かでも当然のごとく思っているだろうことのひとつは、みんなそれぞれにそれぞれの想いを抱えて、みんなバラバラだってことだ。
同じチームをサポートしていても、それは全く異なる。サポートの仕方にそれが滲み出てくる。いくら隠そうとも、ゴールが決まると座ったまま拍手するひとの隣でバチコリ立ち上がって天に両拳を掲げガッツポーズを繰り出す僕を僕は止められない。
それでもこのサッカーとやらが、ベガルタ仙台とやらが面白いのは、この90分間、まあ延長戦とPK戦のことはさておいて、まったく違う「俺達」がピッチを、ボールを通してひとつになれるってことだ。
生まれも、国籍も、ルーツも、性別も、貧富も、馬鹿も、天才も、人生におけるたったの90分間だけ溶け合い、一体となる。
一体となったそれは、大きなうねりとなり、ゆらぎとなって、スタジアム全体を波立たせる。
ピッチのうえでは、ボールの前では、選手も一般人も小さな存在であり、みな平等なんだと、この人生の貴重な時間を奪うスポーツの前では、謙虚に平伏さなければいけない。
90分経てば魔法は解け、金色の週末か、地獄の終末のどちらかを満喫する権利と義務を得る。
一体となっていた僕たちは、再び、それぞれとなって、それぞれに枝分かれした帰路につく。
そしてまた、週末なのかミッドウィークなのかは分からないけれど、道を歩いていれば交差点に辿り着き、そこでまた一体となる。
そんなことの繰り返しが、サッカー観戦であり、スタジアムという舞台装置なんだと思う。
僕たちは、サッカーの前では無力であって、たった90分間だけ全然知らないひと達と一緒になれる。
そんな奇跡みたいことが、毎週末にあるんだから、それもまた奇跡なんだと思う。
だから生き続けてほしい。
サッカーも、ベガルタ仙台も。
こんなことがなきゃ、分かり合えないくらいに不器用なんだな、人間ってのは。