蹴球仙術

せんだいしろーによるサッカー戦術ブログ。ベガルタ仙台とともに。

「失敗の質があがっていかない」

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Qolyのインタビューに、こう言ったのは”吉武先生”だ。

ようするに「意味のある失敗をしなさい」ということだと解釈している。

「日本は失敗に厳しい」とか「どんどん失敗していい」など、極端な主張をサッカー以外の場面でも見聞きするし、実際言われたこともある。

「失敗の質があがらない」は、その真ん中あたりに漂う絶妙なフレーズだなと、個人的には気に入っている。

プレーや技術の質だけでなく、引き起こした結果の質も追及していく姿は相当ストイックに映る。ただ、そのプロセス、アプローチの仕方に目を向け、ただの失敗をいい失敗に、いい失敗を成功に、成功をいい成功へとつなげていく一歩目になると思う。

一足飛びで、階段飛ばしでジャンプアップできたらいいし、いわゆるイノベーション思考とはそういうものだと解釈しているのだけれど、それには目に見えないおびただしい数の試行と失敗がある。

意思ある踊り場

階段で思い出した”モリゾー”の有名な「意思ある踊り場」。モリゾー”の”というより、”トヨタの”と言うべきか。

成長していく段階において、必ずやってくる停滞期。山を登っていても、一向に頂上に着かない(ように感じる)時があって、途中で止めたり、下山することもできる。いかに未来へ向けた一歩を踏み出せるのか。停滞ではなく、成長する、上達するために力を蓄える期間にできるか。経営組織における課題もピッチのおける課題も、本質は変わらないはずだ。ひとがかかわるので。

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失敗の”仕方”

ただどうすれば成功するのか、成長できるのかを知り、体現するのは並大抵なことではない。そもそも、成功への因果関係など存在しないからだ。

野中先生は、旧日本軍の失敗の”仕方”をまとめあげた。面白いことに、失敗には失敗なりに、”やり方”が存在する。

じゃあその失敗の仕方にこだわりなさいは、ある意味で成立するわけだ。どうしたらうまくいかないかを理解して、二度と同じ失敗をしないことも大事ではあるが、何かを為そうとしたときに、一度でうまくゆくはずもないので失敗するならせめてうまく失敗しましょうといったところか。

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”吉武先生”について

さて、吉武先生が監督のおこしやす京都ACなのだけれど、残念ながら降格が決まっている。序盤からの苦戦がシーズン終盤まで続き、重要な試合で勝ち点を取りきれず、結果としてはうまくいかなかった。

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4-3-3でワイドに高い位置に張るウィングがいて、アンカーが存在しつつ、アンカーはsalida lavolpianaでバック3を形成し、SBがインバートしてMF化する。ハーフスペースから攻撃を開始して、後方から中盤でボール保持。”逆展開(サイドチェンジ)”でウィングを使って相手を押し込んでいく。

ボール保持とポジションチェンジをベースに、何度もサイドチェンジを繰り返して、相手をゴール前に押し込んでいくゲームの進め方は、日本においてまだまだユニークだ。

アンカー兼CB寺田樹生(テラ)は、今季のチームのキープレーヤーで、CBとして前掛かりにプレッシャーをかけ、ボールを奪うと”アンカー”になりセンターサークルで攻撃のタクトを振るう。

吉武先生の試合中の声掛けは、「たつき!じゅんぺいと違う動きで受けないと!」「逆ポケット使って!」「粘る!」など、数学教師のルーツでありながら、言葉や言い方はまるで音楽の先生のようだ。*呼称や用語はそのままです。雰囲気伝われば。ご了承ください

テラは、そんな吉武オケの指揮者だ。

終盤は、CBテラの上下移動を使った【4-4-2⇔3-1-4-2】になっても、ハーフスペースをとったり逆展開は変わらず。

今季積み上げたものは少なからず形になっているのだ。

勝利へのこだわり

とはいえ難しい……

降格してでもやるべきことがあるのか。「耳をすませば」主人公”雫”の言う、受験より大事な「試すってやつ」みたいなものが。

僕は、このissueに対して解を整理できていない。つまるところ我々は、トップのディビジョンで何をしたいのか、何を主張したいのか、何にトライしたいのか。クラブとしての取り組みのなかで、目指したいもののなかで、上のディビジョンでなければ成し遂げなれないものが何なのか。意外と簡単に言えないなあと。

とはいえ、勝利や昇格に拘らなければ、サッカー選手を続けられないかもしれないし、クラブだってなくなるかもしれない。うまくいかなくていい、失敗していいと初期の段階で認知して取り組むことに、それこそ意味があるのか。

一番いいのは、やるべきことをやって失敗しないことだ。当たり前だけれど。

なので、本質的にはそこへ向かって努力し続けることかもしれない。今の僕にいえるのはそれくらい。

「ひとつの勝利にこだわる。そのためには、失敗の仕方にすらこだわり、意味のある失敗をしてその質をあげないといけない」

2023シーズンのベガルタ仙台

そんな文脈で、今季のベガルタ仙台なのだけれど。

どれだけ、高い質の失敗ができたのか、と問われると、非常に厳しいものがあると感じている。

伊藤彰の表現したいサッカーは、4月の一日で変質してしまったし(3-2-2-3で後方から保持する形から4-4-2のファストブレイクに変更)、堀孝史もチームを再浮上させるためにモデルチェンジを繰り返した。

そもそも、3-2-2-3だったり、4-3-3だったり日本において稀有なオーガナイズとゲームの進め方で、表現できる選手もなかなか取り込めない。一方で、そんなオーガナイズが当たり前のようになっている欧州の最前線での需要は高く、日本の若い才能たちは海外へと羽ばたいていく。先鋭的なオーガナイズを選んだ以上、その浸透とそれこそ失敗を繰り返して成功していくには膨大な時間がかかる。選手集めも含めて。トップだけが取り組むテーマでもないはずだ。あまりに現実離れしたチーム戦略、編成の失敗を咎められた一年だったように感じている。

テキスト速報のような”結果”だけが、ピッチとスタンドとをつなぐ指標になってしまった。

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クラブ内外でのゴタゴタもあり、振り返りたくない1年でもあるのだけれど、何をもって「勝ち」とするのかの共通理解、徹底がなされなかったシーズンだったと個人的には振り返っている。

優勝、昇格という、気持ちのいいフレーズだけが独り歩きして、時間軸の共有がされず(本当に今季優勝を狙えたのか?)、戦略ミスをピッチ(現場)レベルで帳尻合わせようとしたことが、今季のベガルタ仙台の失敗の仕方だと考えている。

誰もがひとつの目標にむかって努力して、その質をあげようとしていたか。ベガルタ仙台にかかわるみんなが、バラバラのまま個人個人が奮闘し、各個撃破され、そしてシーズン終戦を迎えてしまった。

失敗も成功も無いなか、現実的な昇格の希望がなく闘うのはつらいことだと思うし、闘い続けた選手やスタッフは本当にプロだと思う。ユアスタに足を運びつづけたサポーターは、まさにチームをサポートし続けたと思う。だからこそ、こんなシーズンは二度とやっていけないはずだと、強く思っている。

庄子春男の仕かけ

そんななか、仕かけたのはGMである庄子春男だ。

ポイントはいくつかあるが、こんなものだろう。

  1. 生え抜きの数を増やす
  2. 平均年齢を若くする
  3. 地域貢献する

組織を持続的に発展させていくうえで、人的資源の課題は組織経営においても非常に重要なテーマである。サッカーにおいては、「いい選手を早い段階から採り長くクラブで活躍してもらう」ことだと思う。

仙台は長らく期限付き移籍での獲得と中心選手の放出との間で揺れ動いていた。盤石といえない人的資源供給源のなか、奇跡的にかみあった結果が天皇杯準優勝だった。大きいことをいえば、毎年タイトルに絡むには奇跡的な噛み合わせより持続的な発展の方が、絡む確率があがるはずだ。

それでも、やはり重要なのは「勝ちに拘ること」。何をもって勝ちとするかを定義づけるのと同時に、目の前の1試合に勝つことに拘ることも重要で。そもそも、そこに拘って努力するからこそ、ひとは育っていくものだと思っている。思っているというか、そう信じている。個人的には。

”ゴリさん”の招聘

U-17日本代表監督だった森山佳郎”ゴリさん”が、2024シーズンの監督となった。

これほど想いや考えを持って仙台へやってきた指導者がいただろうか。(笑)

チームとしてのあるべき姿からゲームの進め方まで、ゴリさん自身が仙台で達成したいこと、その仙台が実現したいことも含め、将来像を語った。

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庄子さんとゴリさんの目は揃っている。

いや、庄子さんが描いたベガルタ仙台像に必要な指導者として、ゴリさんが最適だったというわけだ。ゴリさん自身も、仙台で監督をしたいと”逆オファー”していたようで、両者にとって理想的な関係といえる。

長期的なビジョンだったり、選手育成的な側面がクローズアップされるが、求めるプレーはすごく具体的で根本的な内容だったと感じた。

攻撃の際に相手ディフェンスの背後やゴールに向かっていく迫力や、ピンチの時に死ぬ気で全員が戻ってくるスプリント、最後の局面で体を張って失点を防ぐといったプレーだったり、点を取るためのバリエーションだったりと、結果にたどり着く道筋は増やしていきたいと思っています。

ひとつのプレーに拘れず、勝利に拘れない。そんなひとつ一つの積み重ねが、大きな目標を実現する糧になると、好意的であるかもしれないがそんな解釈をした。

特に、アンダー世代のW杯など、仮に勝てなくてもこれからのサッカー人生で、もっとうまくなって技術やプレーの質を高めていくことになる。ただ、目の前の試合に、勝利に拘らなければ、そんな”今後の目標”もどこか他人事のように聞こえてしまう。

育成か結果ではなく、結果を追求していくからこそ、ひとが育っていく。吉武先生の失敗の質と同じように、ゴリさんの絶妙なスタンスは選手やチーム育成に必要な視座なのかもしれない。

今年のブログについて

結局、年間を通して継続した更新はできなかった……

日々積み上げることが大事だと言いつつ、この体たらく。まったく恥ずかしい限りだ。とはいえ、来年で6年目を迎えるのだけれど、なんだかんだ何かしらの更新自体は続いている。とりあえず何か、は大事かもしれない。無いよりマシ的な。

サッカーをよく観るようになってから12年くらい経つわけだけれど、当時よく読んでいたブログのサッカー店長(龍岡戦術分析コーチ)と、まさに当時憧れていたU-17日本代表の監督だった吉武先生(吉武博文監督)のツーショットを見れるなんて思ってもみなかった。

長く向き合っていたら、こんなこともあるんだなあと勝手に感慨深くなっていた。

僕は、書けなくなったら辞めるつもりだ。

昔は書きたいという気持ちが書く行為を追いこしていって、とても追いつかなかった。

純粋な書きたい気持ちが、僕の書く原動力だった。

今年もなんとかその気持ちの灯は消えることなく、書くことができた。

来年もまた書けたらいいなと思っている。

書かなくても何も困らない自分を認識した時、書くことの意味を考えたこともある。特に今年はそうだった。書かなくてもきっと僕はただの一人のサッカーファンなんだろうし、何があっても、ユアスタの最上段から応援しているに決まっている。

自分にとっての付加価値である書くことが、応援とセットのひともいれば、観戦の延長戦上というひともいるだろうし、自分の主張を述べたいひともいる。全部が全部のひともいるだろう。

仙台が勝っても負けても、この人生のなかでは幸せな時もあれば不幸せにもなる。僕が書こうが書くまいが、仙台は勝つし、人生のその瞬間もまた幸せなのかもしれない。逆に一所懸命に書いたところで、仙台はボールを失うし、日常に不幸なことが重なるのだ。

今年を通して、僕にとっての書くことは、まあこんな塩梅に落ち着いている。ある意味やるだけ自分にとって得かもしれない。もっと他にパワーを割けるという意味においては、無駄なことかもしれない。

フワフワと漂っている感覚が、今はすごく落ち着く。

くじけそうな何かがあっても、書くことで、僕は僕を再び認識する。仙台が勝てば、それがどれだけうれしいことなのかを噛みしめながら、また書くだろう。

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今年もお世話になりました。

来年もまた、よろしくお願い申し上げます。