蹴球仙術

せんだいしろーによるサッカー戦術ブログ。ベガルタ仙台とともに。

『手倉森 誠』という物語

 手倉森誠、いや、テグと呼ぶべきだし、すでに「テグさん」と兄貴分的に慕うのも少し照れるというのは、個人的な感情だ。そんな、仙台サポにとっては、特別な指導者のひとりであるテグが2021年シーズンの監督に就任した。

 テグといえば、2010年、2011年の4-4-2ブロックの完成度を自慢していた思い出がある。当時の僕は欧州偏重型サポだったので、まあ正直なところ、これはおそらく時効だろうから言えるのだけれど、JリーグのDFシステムに対して懐疑的、というより非常に悲観的に観ていた。なんせ、当時の僕にとって、あのクロップドルトムントを筆頭とした4-4-2プレッシング系のチームやらセリエAやらが先生なのだから、それは比較対象にしてはいけないでしょうという話である。

 そんな僕だったから、2012年に仙台スタジアムに登場したハイライン4-4-2ブロックで中盤をプレッシングの嵐で席巻し、対戦相手を完全に撃破して、日本サッカーのトップシーンを躍進していく姿に興奮と涙が出るほどの感動を覚えた。まあ、「マルキーニョスだけ能力値高くねえか?」の広島戦も興奮したけれど、すぐに忘れた。

 テグには物語がある。J1昇格の物語。J1残留の物語。優勝争いの物語。ACLの物語。代表監督に栄転していく物語。彼の野心と我々仙台がJ1で戦っていくという野心は、いわば執念と言ってもいい、ひとつの塊となって、鹿島アントラーズジュビロ磐田といった歴戦の強豪、アジアの強豪を飲み込んでいった。当時のテグも40代で、指導者としてもこれからで、他チームから都落ちしてきた選手たちの闘争心に灯をつけ、サポーター、クラブも巻き込んで、まさに心身一体となってJ1の荒波を突き進んでいった。

 物語には、必ず、終わりがやってくる。「J1昇格と残留が至上命題」の大義名分のもと、ボール保持攻撃を諦めていたツケを2013年に払う、いや、払えずに終わった。「ボールを持った時にどう主導権を握るか」は、ベガルタ仙台が10年単位で持ち続ける「最後の問題」だと、個人的な感情を言わせてもらえれば、あのナベですら解けなかった難題である。いずれにせよ、テグとベガルタ仙台の物語は、飛ぶ鳥を落とす勢いで駆け抜けた物語だし、お互いの方向性も合致していた。終わり際も、これもお互いが「次」を見るのにも十分な説得力があった。次の物語を始めるのには十分な。ま、そのあとのベガルタ仙台側の物語は、打ち切り連載になったが。

 クラブは、明確に、「自分たちが確実にジャンプできる地面」まで降りたし、時計の針だって戻したのだ。これは間違いない。それが良いとか悪いとか、気に食う、食わないではなくてクラブの判断だ。土台がなければジャンプできない。その土台のひとつが、手倉森誠だった、だけだ。ただこれも良い悪いではなく、当然ではあるのだけれど、昔と今は全く違う。僕たちは、ある意味、テグとの「飛ぶ鳥を落とす」物語は「良い思い出」となっている。『2021年』も『2012年』同様、飛ぶ鳥を落とせるかは違う。同じものを期待してはいけない、ということだ。テグだって、代表監督を経験し、今季はJ2長崎で最後まで昇格争いに身を投じてきた。ある意味、「天井を突き破ろうとアップセットを起こそうとする野心溢れる指導者」に、僕たちは、クラブは、どんな「天井」を用意したのだろう。

 とにかく、テグとは新しい物語を始めないといけないのだけれど、どこか昔話を期待していないか?テグが描きたい物語を今のベガルタ仙台が用意できる舞台装置で表現できるのか?今もまた、あの時と同じように生き残るの大義名分のもと、すべてが許されていないか?と思うわけで。「それどころじゃねえ」と言われてしまえば、それがすべてなのだけれど、「それどころじゃねえ、降格したら元も子もねえだろ」と毎年言って10年が経った。「じゃあいつなら良いんだ?」と。だから僕は、このクラブの判断を「最適ではあるが満足はしない」、「理解しているが納得はしていない」と感じているのが、正直なところである。

 震災も、コロナ禍も、5年後、10年後やってくる「負の未来」が前倒しでやってきたのだし、それまでの5年や10年で準備できていなければ、今日明日で解決できるほど簡単なことでもない。「それどころじゃねえけど、やんねえとマズいからやっておく」をこれまでどれだけ積めたか、が今季や来季、さらにその先さらにどのクラブにも出てくるし、サッカーに限った話ではなくなってくるのだと思う。ま、消火活動の真っ只中のベガルタ仙台には、目の前の火を消してくれ、と言うのが非常に合理的な判断ではあるのだけれど。

 そんなこんなで、正直何が起こるか分からない世界ではあるけれど、逆に何を起こしても良い、そんなリスク、チャンス含めて、いろんな可能性がある。手倉森 誠には、本当に、なぞり書きではなく、今を見つめて、未来を描いて、心技体のすべてを最大限に発揮してほしい。そして、彼がすべてを発揮できるような、野心を駆り立てるような、天井を、未来を、夢をクラブが示せるか、共闘できるか、がひとつ大きな壁になると思っている。

 「目の前を生き残れなければ未来だって生きられない」と「未来を生きる意志がなければどうやって目の前を生き残るんだ」は、つねに天秤にかかって、毎日、いや毎秒、左右の重さが変わる。

 

 そして、今、その真ん中に、手倉森 誠が立っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P.S これは僕の個人的な感情ですけれど、これならナベが続けたっていいじゃないかと。そんな気もします。気もするだけ。ただ、彼はよりクラブのビジョンやミライを明確に掲げるクラブに惹かれたとも言えるし、仙台にはそれが劣っていたとも言える。それに、人事権と予算権を握ってた人が変われば、意思決定なんてものはすべて変わるので、一概にすべてを紐づけて語るつもりはない。無いからこれは、個人的な感情になる。(だからと言って、帰ってきてと土下座しろなんて、そんなの死んでも嫌だし、彼の指導者人生をこれ以上、仙台という土地だけに縛りつけたくない、もっと挑戦してほしいと思っている。人間の感情なんて、そんなもんです。)