蹴球仙術

せんだいしろーによるサッカー戦術ブログ。ベガルタ仙台とともに。

ディナイ不要とサッカー② ~サッカー的解釈~

はじめに

  どうも、僕です。前回、バスケのディナイ不要について、サッカー的な目線で解釈してきました。今回はその続きです。どうぞ。

 

↓前回のおさらい

sendaisiro.hatenablog.com

 

目次 

 

ディナイ不要とサッカー

「ディフェンスをしながらオフェンスをする」とサッカー

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  ずいぶん懐かしいカードですね(笑)僕は、罠カードをよく使っていました。経験ある方なら、罠を「トラップ」と読んでもらえたと思います。さて、まずは引用から。

ディナイ(ディフェンス)を練習しているチームは、プレッシャーをかけてボールを奪って速攻に繋げることで勝てる試合もあります。でも、それは逆に言えば、「ディナイが通用しなかったら勝てなくなる」ということです。問題は、この後です。

「オフボールはディナイをするべきもの」だと常識だと鵜呑みにしてしまっていると、試合に負けた原因を「ディフェンス練習が足りなかったからだ」と考えてしまいがちです。確かに、それは一理あるでしょうし、それをカラーとしているなら、そこを高めることは必要です。でも、実際は、それ以上に大きな割合を占めているのが「ディナイを練習することで、オフェンスが上達していない」ということです。ディナイを盲信していしまうと、ここに気づけなくなります。こうなると、どうなるのか。悪循環が生まれてしまいます。

 

 ここで重要なのは「ディナイ(人基準でのプレッシングや攻守切替時のデュエル)を盲目的に鵜呑みにしてはいけない」ということです。また、これはサッカーでもよく見かけるのですが、「選手が戦っていなかったから負けた」「戦う気持ちが見られない」と、人を基準としたディフェンスのいわゆる「球際」と呼ばれる攻守がどちらに転ぶか分からない局面のデュエルに敗因を求めたりします。また、「オフェンスが上達しない」というのは、少し分かる気がします。2019年のベガルタ仙台も、いわゆるディナイディフェンスのように、ホルダーへの激しいプレスやオフボールのレシーバーへ1vs1のプレッシングをかけて、攻守の「切替」「走力」「球際」で勝てるサッカーを実践していました。ただ、当時の渡邉元監督が仰っているように、それまで積み上げてきたボールを保持した攻撃やポジショニング(良い立ち位置)をベースとしたやり方から、上記のような戦いにシフトするなかで、ディフェンスの練習が多くなりこれまで積み上げてきたものも薄れてきたと言及されています。

 ↓この動画でも語られてます。

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  「良いとこ取り」という言葉がありますが、これは言葉があるだけで実態とは伴っていないです。組織や構造、仕組み、ルールが変わればそれまで「是」とされてきたことや良かったことの価値基準が変わりますから、新しい構造のなかでは邪魔者扱いされて本来然るべきなんです。やってきた事実、経験がそうさせているだけであって、大枠としては今やっていることが最善なんです。

 さて、話がそれましたが、ディナイにしろディナイ不要にしろ、それがすべてのように語られることがおかしいということなのだと思います。バスケ、サッカーにかかわらず、そういった一元的な、平面的な見方でしかスポーツを体験できないのは不幸だということです。また、自分たちにすべて責任があってダメなんだと内省するのは自傷行為であり何も生み出しません。相手のオフェンスが悪ければ、「相手の攻撃がよくない」と判断すれば良いです。サッカーで言えば、人をターゲットにプレッシングをしていくことも、ゾーナルブロックを組んで、背後のスペースをカバーすることも、すべては相手の攻撃次第になります。そして、自分たちがどう守りたくて、どう攻めたいのかが来ると思います。そこまで自分のチームで、「選手を守るのかパスコースやドライブコースなのどの選択肢を守るのか」を状況別に観察して判断して、自分たちの狙いを実行できれば、相手にとっても脅威になりますから、ただロングボールを蹴れば良い、ドリブルで抜けばいいといった一次元的な攻撃から脱却して、ライン間やライン背後、良い立ち位置を取る、相手を引き寄せて裏へ蹴るなど、「ポジショナルプレー思考」的な考えでサッカーをプレーできるのだと思います。相手も自分も思考の好循環を回すことで、記事中の言葉を借りれば、サッカーを高次元に持っていくことができるのだと思います。 

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 イビチャ・オシムが考えるサッカーを標榜していました。また、吉武博文が相手と相談すると言っていました。相手を観察して、必要ならプレッシングを前線から各選手へかけていく。場合によっては、相手を誘導して、ゾーナルに守った方が良い場合もある。相手が人目掛けてプレッシングをしてくるなら、プレスを外して裏へパスを通すなど、相手を観察しながら考えてプレーできるのだと思います。記事でも盛んに言われているのはいわゆる「脳死状態」の思考停止でプレーをすると、プレーしていても面白くないし自傷的になる。競技そのもののレベルも上がらない。ここはかなり柔術的な考え方に近くて面白かったです。いずれ、この視点についてもまとめるつもりです。

 

「ゾーン禁止とバックドアカットの価値」とサッカー

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今、ミニバスと中学生ではゾーンが禁止されています。また、ゾーンのような守り方、マークマンから大きく離れる守り方も制限されています。コミッショナーという新たな審判のような人がいて、コミッショナーの判断で「マンツーマンではない」となったら旗が上がり、注意を受けるというもの。ディナイが半強制的に義務付けられているようなものだというコメントをもらいました。国際的にも強豪国は15歳以下でのゾーンを禁止しているようで、JBAの方針として「個の力を高めるため」としています。

 

 これは知らなかったので素直に驚きました。驚いたのと同時に、一時期、日本のサッカーにおいても「個の力」がやたらとクローズアップされました。「世界と戦うには選手個人の力をもっと底上げる必要がある」といった文脈でした。個人的には、そこはアグリーでぜひとも個の力とやらを上げてほしいとは思いますが、それはいわば当たり前のことであって、これまで「組織力」や「団結力」などの言葉でぼやかされていた部分なのでやっていけばいいと思います。ただ、これまでの記事群でも語られているように、「それだけ」やれば、日本サッカーが世界に勝てるわけではないです。また、穿った見方をすれば「世界で勝てない理由や責任をすべて選手個人に背負わせている」とも取れます。「お前のせいで負けた」という言説は、プロアマ問わず、スポーツ問わず聞こえてくる「選手を石化させる呪いの言葉」だと僕は思っています。責任や失敗要因を過度に個人へ向けると、「自分はダメなんだ」と過度に内省的で自己責任的になってしまいます。重要なのは、「原因を正しく認知する(=原因帰属理論)」だと思います。相手のせいでもあるし、もちろんやっぱり自分が悪かったということもあります。環境のせいだってあります。それぞれを起きた事象と原因を紐づけられていますか?ということを僕は問いたいと思います。

 とはいっても、若い世代にいきなり言っても悩ませてしまうかもしれませんし、記事でも言われていますが、大人が子どもに先に答えを教えたくなってしまいます。そうではなくて、いったんその道を歩かせてみて自分の肌で風を感じて、舌で味を確かめて、頭で考えてから出した答えの方が、より意味を持ちます。僕はこれを「経験値化」と呼んでいます。人間はたいてい「体験」をします。その体験したことを自分なりに振り返って「経験」にします。それらの経験の積み重ねが「経験値」になり、これらの一連のプロセスを「経験値化」と呼んでいます。大人が子どもにやりがちなのは、この経験を先に教えてしまって、教えたつもりになることです。子どもからしたら他人が振り返った体験を教えられても決して経験値にはなりません。なってもその瞬間だけです。

 たとえば、デュエルと呼ばれる球際のボールの奪い合いも、まずはそれがどういうものなのかを体験して、実際デュエルを90分間続けるのか?そもそも必要なのか?鍛えられるのか?などの自問自答を通じた振り返りで経験値にしてしまった方が良いと思います。その結果、「この場面は無暗にプレッシングをかけてデュエルに持ち込んでもかわされて背後のスペースを使われてしまう。だからもっとパスコースやドリブルコースをカバーして相手の選択肢を狭めよう(=ゾーナルディフェンス思考)」になれば、良いのだと思います。そして今度はゾーナルディフェンス(=ディナイ不要守備)を体験して経験にして……その繰り返しなんだと思います。繰り返していけば若年世代でも久保建英のような「経験値のある選手」が育っていくと思います。記事中でイチローの言葉が引用されていましたが、深みのある人間になるのだと思います。

 また、記事中で言及されているディナイも、サッカーで言うところの球際、デュエル、人基準守備も、「ボール保持が前提」となっています。この前提のままだと、やはり「奪えるか抜けるか」になりますし、「勝ったか負けたか」の一元的な評価でしかサッカーもバスケを見ることができず深みがでないです。そこで出てくるのが「バックドアカット」です。まさに「ボールを持っていない1v1」がピタリとはまるプレーです。サッカーでは、ライン裏へのオフボールラン、裏抜けなんて言葉で言われるプレーになります。ただ、個人的には、それを相手ファイナルラインに対して発動するので、ゴールへの直接的なプレー、裏抜け=バックドアカットになると解釈されそう認識されていますが、「相手ライン背後へ飛び込むオフボールラン」はバックドアカットだと思います。サッカーにおいては、「ライン裏・ライン間に潜る」プレーだと、僕はバックドアカットを解釈しています。アウトサイドからインサイドへ、ファーからニアへライン裏やライン間へオフボールランを繰り出すプレーと考えます。だから僕は「潜る」とか、潜ったままたとえばオフサイドエリアにいることを「潜伏」と呼んでいます。

 バックドアカットが強力な理由のひとつは、ボール保持側(=攻撃側)に主導権があることです。相手DFがディナイディフェンス(人基準に守っている)していると、背後のスペースやパスコースをカバーする意識が低いですから、そこへボール保持側のタイミングでバックドアカットを仕掛けることができます。こうなるとボール非保持側(=守備側)が後手に回ります。また、バックドアカットした選手へついていくので、守備に必要なライン形成を維持できず、ぐちゃぐちゃの状態になってしまいます。こうなると、たとえボールをはね返してもセカンドボールを回収しにくいですし、カウンター攻撃を繰り出そうにもポジションがバラバラになってしまいます。いずれにせよ、前述したとおり、攻撃側がバックドアカットを繰り出してくるのなら守備のやり方を変える必要があります。それがディナイ不要守備へと繋がっていくわけです。

 

「相手のスペーシングが良かったら打たれ放題じゃないか!」とサッカー

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  まあ、こう言った言説はよく飛び交いますね(笑)。サッカーですと、失点しようものなら「1v1を逃げてる」とか、「ちゃんとマークしてないから」とか言われますね。ただしこれについても、やはり相手をきちんと観察する必要があると言いますか、たとえばパス出しがうまいセンターバックとそうではないセンターバックとでは、ボールを持たれた時にプレッシングをかけるのかどうするのかは変わってくると思います。また、パスを出されても出した先を潰せる算段(相手より身長や体重で勝るDFを揃えているのでハイボールで勝てる)があるなら、ホルダーに密着マークするような真似はしない(ディナイ不要守備)と思います。何度も言いますが、大事なのは、きちんと相手のオフェンスを観察して自分たちのディフェンスを決めることです。自分たちにとって一番得なやり方で、相手にとって一番不利なやり方を実行していくことが重要だと思います。実は、この考え方こそが、ボール非保持(守備)時には「ゾーナルディフェンス(ゾーンディフェンス)」、ボール保持(攻撃)時には「ポジショナルプレー」と呼ばれるものの正体です。「チャレンジ&カバーしましょう」とか「三角形を作りましょう」とかはあくまでオペレーション、実行段階のキャッチーな言葉であって、本質とは違います。ディナイ不要論でも何度も言われているように、目的と手段をはき違えず、攻撃でも守備でもやれること、手札は多い方が良いですし、何を繰り出すのか?が相手との駆け引きになります。その駆け引きのレベルが上がれば、競技のレベルが上がっていきます。究極的な目的はそこになります。自分と相手との、競技を通じたコミュニケーション。競技をより深く高いものにしていくひとつの表現方法なのだと思います。

 実際、2019年後半のベガルタ仙台は、「1vs1を制して速攻で勝つ」チームでした。守備の練習時間も増えたと聞きます。記事中にあるように、オフェンス練習へのウェイトが減ったのです。実のところ、記事の著者である原田さんには申し訳ないですが、僕はサッカーにおいては守備戦術が勝敗を決めると思っています。すみません(笑)。でも、サッカーはバスケと違って80点も入るスポーツではなく、多くて3点、4点です。しかも、最後は1点を争い、相手より1点多ければ勝つスポーツです。90分間競技をしてたった1点で勝敗が決まる残酷なスポーツです。一方で、守備戦術のやり方はある程度何通りかのやり方があって、あとはどうやって実行するのかが大事になるのですが、攻撃戦術、オフェンスについてはある程度の定型化はあっても形が自由です。そうい意味では、攻撃が守備を強くするのかもしれません。無限にあるように思える攻撃を少しずつ限定していって、自分たちの攻撃へ変換するのが、サッカーのボール非保持時における醍醐味だと思っています。バスケとサッカーの共通項は、「1人じゃプレーできない」競技です。ボールが1個、自分と相手の2人がいればこの地球上のどこでもプレーできます(特殊な場所とかは別)。ある意味、ボールを使った、2人の競技者による勝負でもあるし、作品でもある、表現方法なのだと思います。

 

おわりに

 ここまで記事をサッカー的に解釈する作業を進めてきました。大変です。疲れました(笑)。原田さんのバスケ記事はめちゃくちゃ面白いので好きな記事は何度も読んだり、動画を見たりするのですが、いかんせんバスケ未経験なので分からないものは分からないで通ってきています。でもこうした異なる分野や文化でも、共通項がある、普遍性があることを学んでいくことがいわゆる「多様性を理解して、他者を理解し、人類の普遍性を理解する」に繋がるのかと思います。ということで記事解釈はこれにて終了。次回は、これらの解釈をもとに、具体的にブレイクダウンさせてゴリゴリのサッカー話を書きます。いわゆる実践的コントリビューションですね。では、また。

 

 

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